Far From

SS作者:sii(百合根P)
題目消化:「氷」「動物」


◆Far From

グラスの氷はとうに溶けた。
外壁を伝う雫が落ちて、異国の模様のコースターを濡らしていた。
日が変わり、来訪者が帰路に着いたのはしばらく前だが、
律子は未だテーブルに突っ伏したまま動けずにいた。

久しぶりに時間が取れたからと、自宅に招いた彼女は
律子の見た事の無い表情で笑っていた。
以前の彼女からは考えられない程、柔らかな笑顔で。
どきりとした。

「……あんた、変わったわね」
「そうかしら」

そうでもない、と言って顔を綻ばせる様は、とても、そう、とても愛らしくて。
年相応の少女の愛嬌を、ようやく取り戻したかのようにも思えた。

――なぜ、私にはそれが出来なかったのだろう。

「何かご希望は?」
「紅茶はある?」
「ダージリンで良ければだけど」
「いいわ、ありがとう」

コーヒーじゃないんだ。
そう出かかった言葉を、律子は飲み込んだ。
簡単に、ありがとうを口にするんだ。
そう出かかった言葉を、必死で飲み込んだ。
つい、棘が混じる。苛立ちが募る。
そんな事がしたくて呼んだ訳じゃない。分かってる。

――突き放したのは自分なのに。

目の前で明らかな実力の違いを見せつけられて、恐怖を覚えて、
それでいて、ひどく惹かれて、焦がれた。
ある種の信仰の様なものだったのかもしれない。
歌も、プライベートも、誰の介入も許さない。
例えるならば孤高の狼の様な彼女のイメージを、律子はそれと知らずに愛していたのに違いない。

それでも、アイドルという立場は、気位の高い狼がステージに立ち続ける事を許さなかった。
ステージは人々が求める少女らしい愛らしさを要求した。
彼女はそれを持ち合わせていなかった。
律子は、それを持ち合わせていないと思い込んで、彼女との共感を愉しんだ。
加えて、律子は器用だった。
要求されれば極めて冷静に分析を加え、それに応じるだけの器用さがあった。
だから、ステージの要求に応えてみせた。アイドルとしての自分を見事なまでに演じ切った。
彼女にはそれが出来なかった。
確実に、律子と彼女の間には差が出来ていった。距離が生じた。
気が付いた時には、振り返っても彼女を見ることが出来ない程に、
律子はたった一人でずっと先を歩いていた。

――畏敬の対象を下した事に、軽い愉悦を覚えながら。

だから、本当に驚いた。
長い時間の後に、ようやく律子の前に戻ってきた彼女の隣には、パートナーがいたからだ。
誰も寄せ付けない、プロデューサーにすら深く関わられる事を拒んだ彼女が
何故あの人を許したのだろうかと。
鋭くて、強くて、気高い彼女とは似ても似つかない、鈍くて、緩くて、穏やか過ぎるあの人を、
どうして傍に置いておくのだろうと。

今日、久しぶりに彼女と会って、話をして、ようやく理解した。

狼なんかじゃなかった。
必死で虚勢を張って、自らの姿を大きく見せようとして、
それを悟られまいと他人から逃げ続けていた幼い仔犬。
それが、彼女の本質だった。

あの人はそれを見抜いてみせたんだろう。
きっと街を歩く時には決して働かない天性の直感で、律子が分析するよりもいとも容易く。
そうして、本当に彼女が望んでいたものを与えたのだろう。
甘えても、隙を見せても、決して害さず抱きしめる事を誓ったのだろう。
あの人はそういう存在だ。

「良かったら、今度はうちにも来て。きっと喜ぶから」

彼女は帰り際にそう言った。
彼女が”うち”と呼べる場所は既に一つしかない。
そして、喜ぶのが誰かも、そこに律子の居場所がない事も、律子は知っている。

彼女のはにかんだ笑いは、律子の記憶が正しければ、初めて見るものだった。

すっかり温くなったグラスの中身を口に運ぶ。
濃いめに淹れた筈のダージリンは、解けた氷ですっかり薄まってしまって、
甘いのか苦いのかさえもう分からない。

「……ちゃんと、笑えるんじゃない。千早」

律子は一つ溜息を付いて、また元の通りにテーブルに突っ伏した。
グラスを伝う雫と一緒に、瞳の端からも零れて落ちた。


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  • 最終更新:2010-03-26 23:24:23

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