『ムシ』

SS作者:Grace
使用テーマ:「歯医者」「へんじ」「エレベーター」「殺虫剤」




◆タイトル 『ムシ』



 アイドルだって風邪を引く。
 アイドルだってお腹を壊す。
 アイドルだって虫歯になる。
 だからアイドルだって歯医者に行く。
 そして歯医者とは大の大人であっても、格闘家であっても、生死を潜り抜けてきたレーサーであっても恐れる対象である。
 いや、平気だという人も居る。むしろ好きだという人も居る。ただ、大多数からすればこの歯医者という存在は恐怖と嫌悪の対象であり、概ねにおいて進んで通おうとはしない場所である。
 そしてその大多数の中に、アイドル菊地真も存在した。
 半月ほど前から何やらしみるような痛みを感じていたのだが、歯医者の恐怖から彼女はそれをごまかし、自己弁護し、気がつかないふりをして過ごしてきた。
 しかし、虫歯というものはそんなに甘くない。風邪の様に自己治癒で治る病ではないのだ。
 そして忍び寄る魔の手は、一歩一歩確実に菊地真の歯を蝕んでいくのである。
 某医学番組ではないが、そのまま放っておくと、大変な事になりますよ? である。
 そして菊地真はその大変な事になっちゃった部類の人間で、本当に大変な思いをして慌てて医者に駆け込んだりしたのである。

 歯医者の治療は段階的に行われる。まず苦痛の除去。次いで現状把握と治療計画。このとき希望があれば審美治療の計画も入る。それから計画に沿って治療しつつ、予防保全を進めてゆく。
 ところがこれが落とし穴である。
 何しろ一番大騒ぎの元だった苦痛は最初の数回来院するだけで嘘のように終わってしまうのだ。
 その後は痛くもないのに医者に通う羽目になり、歯を削られる不快感と噛み合せのずれるストレス。痛み止めを使われればその間は食事ができなくなり、口の中は歯医者に行くたびに血の味か薬の味をこれでもかというぐらい味あわされる。通いたくなくなるのも無理は無い。
 かといって歯の痛みは一ヶ月のんびり治しましょうなどという生易しいものでは無い。一日どころか一分一秒だって早く取り除いて欲しいのである。
 そんなわけで、菊地真は今日も青色吐息で歯医者に向かう。彼女の治療は今日で四回目。普段の食事には何ら支障が無くなり、予約を取ったという義務感だけで通わなければならないという、最もモチベーションが下がる期間である。

 ところが、待合室の菊地真はため息どころか何やら上の空といった表情だった。

 彼女が通う歯医者は、かなり綺麗な駅ビルの中にあった。口腔外科も行っており、審美治療に関してもきちんとした対応をしてくれる。開業して間もないのに周囲の評判は悪くなく、安心して任せられると言われている。
 そしてこの歯医者へ行くために、真はいつもエレベーターを利用していた。
 そのエレベーターの中で遭遇してしまったのである。

 歯医者同様万人が恐れ、嫌悪し、出来れば逃げ出したいと評する生き物がいる。
 体長4センチ前後と手のひらよりも小さな存在でありながら、口に出すのも憚られる様な存在感を持つ生物がいる。
 肉を引き裂くような爪も、骨を砕くような牙も持ち合わせていないのに、大の大人が悲鳴を上げて逃げ惑う存在がいる。
 三億年ほど前から存在し、古来より人の傍で生き続けてきた昆虫。
 そう、ゴキブリである。

 たしかに、この駅ビルには飲食店も多数入っている。どこにでも現れるゴキブリがエレベーターに居たところでなんら不思議なところは無い。
 だが、エレベーターというのはある意味密室である。狭い為思うように身動きが取れず、敵の攻撃を避け難い。一方相手は指先一本でも触れただけである意味勝利。勝負になるわけが無い。
 幸いにして対戦相手は真に興味を示さず、ものの数秒で姿を消した。
 エレベーターの天井。そのタイルのスキマの更に奥へ。

「菊地さーん。お入りくださーい」
「はーい」

 診察台に身を預け、口を開いて医者の説明を聞く。
 その間も菊地真が考えているのは、あの消えたゴキブリのこと。
 扁平な身体に黒い体色。鋭敏で素早く、知能も高い。そんな彼らが、エレベーターの天井に住み着いているとしたら。
 それはもう恐怖以外のなにものでもない。
 確かに、エレベーターという乗り物は彼らの住処として最高の場所なのかもしれない。
 駅ビルのどの階にも簡単にアクセスでき、人の目に付かない場所と人の手が届かない場所がある。風雨に晒される事も無く、空調の効いたエレベーターは年中春の如き気温である。彼らが巣を作る場所としては最高だろう。
 そしてもし、何かの拍子であの天井が外れたら。
 薄ぼんやりと想像しただけで身震いが止まらない。

「痛いですか?」
「らいじょうぶれふ」

 歯医者の問いかけに生返事を返しながら、真は口を大きく開けなおす。
 痛みどころの騒ぎではない。歯など勝手に穿り返しててくれと言いたい気分だ。
 よしんばまだ巣を作っていなかったとしても、逃げ込んだあの一匹が彼の地を安住の地と認め、婿ないし嫁を招いて一家団欒を楽しむかも知れないのだ。
 それだけは断固として阻止しなければならない。
 しかし敵は百戦錬磨の兵だ。丸腰で勝てる相手ではない。手で潰すなど想像もしたくないし、鞄すらまともに持ち歩かない真が殺虫剤を持っているわけが無い。
 そう、この状況は将棋で言うとこの『詰めろ』状態なのである。
 しかも真に持ち駒は無い。

「お疲れ様でした。口ゆすいでくださーい」
「はい」

 口の中に残る違和感と血の味を水で洗い流し、診察台を立つ。その間に真は一つの妙案を思いついた。
 この駅ビルにはドラッグストアもあり、幸いその店はこの歯医者の一つ上の階だ。階段を探して駆け上がり、殺虫剤を一本買ってエレベーターに乗り込めばいい。そしてあのスキマめがけて殺虫剤を噴霧し、自分はさっさとエレベーターを降りてしまう。これで自分は安全に怨敵を抹殺でき、駅ビルの平和は保たれ、人々に笑顔が戻る。まさに完璧な作戦だ。
 真は会計を済ませ、次の予約を取り付けてから早速行動に移した。購入する殺虫剤はもちろんゴキブリ用。ロングノズルで狙い撃ち可能な最高の武器だ。真はエクスカリバーでも手に入れたような気分になりながら殺虫剤をぶら下げてエレベーターのボタンを押した。外装用のビニールを破り、ノズルを取り付けて準備万端である。
 しかし、ここで思わぬ事態が発覚した。
 エレベーター内部は、他の利用客でごった返していたのである。
 全員の視線が真に集まる。
 こんな新築の駅ビルで。しかもエレベーターの前で。嬉々として殺虫剤を構えようとしている少女。
 どんな時代だって危ない奴以外の何者でもない。
 真は慌てて殺虫剤を仕舞い、真っ赤な顔で階段を駆け下りた。
 今この瞬間だけ、ウサインボルトの脚力が己の足に宿ればいいと強く強く念じながら。

「はぁっ…………はぁ…………っ!」

 息を切らせて駅ビルを飛び出し、路地裏に入ったところで真はようやく立ち止まることが出来た。
 大慌てで駆け抜けたために額には汗が浮き、顔も熱くてたまらない。
 そして真はようやく気がついた。
 いつの間にか恐ろしくてたまらない歯医者の時間が過ぎ去っていた事に。
 しかも今日は神経ギリギリまで削っての治療なので痛むかもしれないと脅かされていたというのにである。

 歯医者が怖くなかったのは、まして何の恐れも感慨も無く終わることができたのは間違いなくあのゴキブリのおかげである。
 しかし自分を恐怖の底に落としいれ、赤っ恥をかかせたのもまたゴキブリである。
 果たして自分は感謝するべきなのか、はたまた憎むべきなのか。
 菊地真はその考えが纏まらぬままにしげしげと殺虫剤を見つめる。
 缶にデザインされたゴキブリは、殺虫剤の一撃でくるりとひっくり返っていた。
 ほんの数秒、真はそのデザインをしげしげと見つめてから事務所へ向かう事にした。
 雑居ビルの中にある、決して綺麗とは言い難いあのビルならば、この殺虫剤は存分に力を発揮してくれるだろう。上手くすればもう事務所でゴキブリに怯えることも無くなるかもしれない。
 それから、この缶の中身を使い切った頃には、自分の赤っ恥も笑い話にできるだろうと信じていた。
 次の歯医者は一週間後。真は医者へ行くルートをエレベーターから階段へと切り替える決意をし、念のためにファッション雑誌の一冊でも買ってから行こうと計画を立てるのであった。

fin

  • 最終更新:2010-06-26 00:54:57

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